いつからか僕は、
サッカーの国ごとの違いを見るたびに、
ある「根本的な問い」にぶつかるようになっていた。
それは、
この違いを「文化の違い」とひと言で片づけてしまっていいのだろうか?
という問いだ。
たとえば、
- 日本のサッカーは「技術的で組織的だ」と評価される。
- 韓国のサッカーは「フィジカルが強い」と言われる。
- スペインは「戦術的に関係性の中で動く」。
- イギリスは「ゴールに向かう直線性を重視」する。
- 南米のサッカーは…
こうした言い方をするとき、
僕たちはつい無意識のうちに
「どれが良いか/どれが正解か」という軸を暗黙に立ててしまう。
ペップのチームが優勝すれば、それが世界の最先端の戦術になるのか。
W杯で優勝した国のスタイルが、その時代の正解になるのか。
でも僕の直感は、ずっと違っていた。
「文化の違い」という言葉の罠
僕はこれまで、サッカーの違いを
単純に「文化の違い」と捉えてきた。
ただ一言に文化の違いと言っても、その背景や歴史にあるものや複雑さをうまく言語ができないままでいた。
でも最近ある考え方に出会って、
その言葉の曖昧さと浅さに気づかされた。
それが、「構造主義」という思想だ。
構造主義は、
人や文化を内面の性格や気質ではなく、
その社会が何を大切だと見なしているかの配置として見る。
これは言い換えるとこういうことだ。
文化の違いとは、
単に性格や習慣の違いではなく、
どの差異に価値を置くかという
思考と評価の構造の違いである。
この見方は、
「日本人は真面目だから」などといった文化・性格的な説明とは根本的に違う。
「真面目だから」という説明を問い直す
「日本人は真面目だから、組織的で戦術理解が高い」
という言い方は、一見ポジティブにも聞こえる。
でもこの説明は、
その「振る舞い」を
人の性格や性質のせいにしてしまっている。
構造主義的に言うと、
その振る舞いは性格ではなく、
その振る舞いが最も合理的になる環境や条件がある
という見方になる。
日本のサッカーでは、
- ミスが強く記憶されやすい空気
- みんなで揃えることが評価される教育
- 集団のズレを許しにくい競技環境
といった条件が重なって、
「ズレを最小化するサッカー」が
もっとも安定した価値になる構造になっていたのかもしれない。
それは性格ではなく、
その社会の中で安定した解法であり、
むしろ自然な結果なのだ。
サッカーは「異なる安定形」の集まりだった
同じように他の国を見ても、
その違いは性格論には還元できない。
例えば、
- 韓国のサッカーは
強度や衝突によって均衡を崩しにいく - スペインは
関係性と位置を操作する - イギリスは
結果への直線性を尊ぶ
それらは「スタイル」でも「流行」でもなく、
その社会の中で合理的だった配置の結果だと思う。
この見方は、
サッカーというゲームの中だけではなく、
人間と世界の関係そのものを見る視点だ。
違いを「理解する」とはどういうことか
構造主義が示唆するのは、
違いは説明したり比較したりするものではなく、
問い続けるべき対象である
ということだ。
違いを「消してしまう問い」、
たとえば
- どれが正しいのか?
- どれが進化しているのか?
という問いは、
本質的な理解にはつながらない。
むしろ、
どの価値配置がそこに成立しているのか?
何が差異として残され、
何が抑制されているのか?
という問いの方が、
その違いを理解し、
他者と向き合う手がかりになる。
おわりに――問いを手放さないということ
つまり僕が今考えていることはこうだ。
サッカーの違いは、
文化の違いという単純な言葉を超えて、
思考と価値の配置の違いそのものであり、
そこには上下関係も優劣もない。
それぞれのサッカーは、
違う「安定形」なのだ。
では、その安定形はどのようにして生まれたのか。
結局のところ、興味は尽きないし、問いは続いていく。
そして僕たちは、
その違いを価値判断で終わらせるのではなく、
問いとして立て続けることで
はじめてものごとを真正面から理解できるのだと思う。

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